2009年10月15日

「我思う ゆえに我あり」の心構えが大切です

 「我思う ゆえに我あり」byデカルト

 昔、倫理の授業で教わりました。
デカルトはこの世のすべての存在を疑いました。
しかし、「我は思っている」ので、「我が存在する」
ことは確かである、と結論づけたような話だと理解
しています。門外漢なので知りません。

 ネットこそ、このデカルトの慎重さを
取り入れるべきです。
「我読んだ ゆえに我あり」位しか
何も確かなものはありません。

「我読んだ そうにちがいない」
というのは、科学的には何の証明にも
なっていません。

 もちろん、私が
「この投稿は本物だろうなあ?」
とか、
「この投稿は嘘だな。」
と考えてみても、真実は謎なのです。

 当たり前です。
我々は神ではなく、人間なのだから。

 だから、私は、ネットの情報を心から
信じることはしません。

 私の見た経験したものしか信じません。
「私は見た。私は真実を知っている」
は、私にとっては、正しい。
(トリックでだまされていないならば)

 しかし、私がネットに、
「私は○○を見た」と書いたとしても、
それを見た誰かが、正しいと決めつけるのは
まちがいなのです。

 当たり前です。私とあなたは別人なのだから。

 とまあ、ごくごく当たり前の感覚ですね。


 ネットゴラムの皆さん、もっとネットを疑いましょう。




 「我思う ゆえに我あり」の回答例を、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1403309.html
から引用します。

(引用開始)

回答
回答者:pyon1956 デカルトは元傭兵をやっていました。17世紀前半、30年戦争のときのことです。ドイツはぐちゃぐちゃになっていました。なにしろ宗教的な対立、大国の主導権争いとその狭間でゆれる小国(どっかで聞いたような・・・)
そういう中で従来の価値観はこわされ、信用できないものになっていました。それでデカルトはそういう中で「じゃー何が正しいのだ?どうしたら正しく考えることができるのだ?(理性を導く)」と考えました。そこで考え付いたのが数学的な思考、論理的な思考です。ただ、そのためには「これは絶対に間違っていない、というもの、第一原理が必要です。そこからはじめて、すべてを実証してゆこうと考えました。でもそれじゃ何が疑うべくもなく正しいのか?ここで行き詰ってしまいます。だってそれが正しいということを示す根拠はもっと正しいものであるはずでさらにそれが正しいのは・・・と循環論法になってしまうからです。それでどうしたら、と考えているときにひらめいたのが、「今まさに私が考えている、というのは確かなことだ」ということです。
それでどうなったか、以下は「方法序説(叙説、ともいう)」をお読みください。

回答
回答者:pastorius 例えば夢を見ているときにぼくは夢の中で「あ、これは夢だ。」と気が付くことが無いのですが、すると、夢を見ているときの世界に出て来る自分自身のことを、現実の自分自身だと思っているわけです。
しかし起きて目が覚めているときには、夢の中の世界は単なる夢で、現実ではないと考えています。
すると目が覚めていると思っている現実の世界だって、ハっと目が覚めて夢でした、なんてことがあるかもしれない。

そもそも自分ていうのは一体、どこからどこまで自分でしょうか。
例えば、爪とか髪とか、汚い話ですがウンコとかは、自分なのでしょうか。
髪の毛は切り取られたり抜けたりした瞬間に自分でなくなるのでしょうか。では腕が千切れたら、やはり腕は千切れた瞬間に自分ではなくなるのでしょうか。
だとすると、死なないと仮定して、体を胴体の真ん中でちょうど半分に切ったら、どちらの片側が自分でどちらの片側が自分では無いのでしょうか。
頭のついている側が自分でしょうか。すると首は自分でしょうか、鼻から上ぐらいが自分でしょうか、目から上ぐらいが自分でしょうか、心臓は自分じゃないのでしょうか。
切り離されたりせず有機的に結合されている生体である限り自分であるとすると、爪や皮膚の表面は既に死んでいますが、自分では無いのでしょうか。
食べものは胃に入っているときは自分でしょうか、自分では無いのでしょうか。胃壁から吸収された瞬間に栄養素だけが自分になるのでしょうか。すると例えば血液は自分でしょうか。ケガをして血が流れたとき、血液はどこからどこまで自分でしょうか。血管から溢れたら自分ではないのでしょうか。すると内出血している内部は自分では無いのでしょうか。
そもそも、もし死んでしまったら自分の肉体は自分では無いのでしょうか。

自分が生まれてきたのは自分の意志というよりオットサンとオッカサンがセックスしたいという欲望に駆られた結果だから、たまたまですよね。
DNAの遺伝情報と成長してきた環境の影響で自分の意識が形成されてきたのだとすると、自分が今日のお昼ご飯にマーボ豆腐定食が食べたいと思うのも、DNAと成長環境から受けた経験を脳味噌コンピューターに入れてガラガラポンした結果、必然的に導き出された結果かもしれない。そうするとそもそも自分自身の自由意志なんか無くて、ただの神の巨大なサイコロが転がり続けてるだけかもしれないです。

なんかそういうような、生産性の無い暇なことを、ベットの中でゴロゴロしながら鬱々と考えてるときに、「あ、でも俺って主体的に今考えてるよな。少なくとも考えてるっていう部分は俺だよな。」と、そういう風に気がついた、という言葉です。
コンピューターはどこからどこまでコンピューターなのかと考えたときに、少なくとも中央演算装置のようなものが演算処理するという部分が無ければ、コンピューターじゃないよな、と定義したようなことです。
(引用終了)

 なお、私が「今でも月面着陸も信じていない疑い深い人間」なのは、それを現場で見ていないからです。
それを映した貴重な磁気テープのデータを、NASAは上書き保存で消してしまいました。
「こんなミスをするNASAが、あんな高度なプロジェクトを成功させることができるのだろうか?」
「人類の月面着陸はあったんだろう論」を読んだ上でも、
答えは「 yesとはいえない。よって疑わしい」という回答です。

 理科系の人に嫌われ、ネットゴラムにも嫌われる人間です。

<関連記事>
http://58807828.at.webry.info/200909/article_40.html
http://58807828.at.webry.info/200909/article_41.html

posted by 知られざる・・・ at 06:48| Comment(0) | webとの関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ネットサーフィン時の心得

 ネットは嘘ばかりの世界です。
基本的に疑ってかかるべきなのです。
ネットの情報を鵜呑みにすると
だまされるばかりです。

 虚構の世界で、どんな美辞麗句を
書いても、しょせん「屁」のようなもの。

 「実践」して、はじめて価値が
生まれます。

 ちゃねらーをはじめ、ネット世界に
生きる人々も、自分の生活の場を
お持ちのはず。

 ネットでワンワン吠えていないで、
実生活で、それを実践しましょう。
(私も自省。反省)

 さて、虚構のネット社会です。
私は「実践倫理宏正会って何?」というサイトで
討論をしていますが、各自の投稿の真偽を
疑ってかかること、相手の背景を常に
想像しながら読んでいます。

 実生活なら、嘘を言っている人は
すぐにわかります。誰も相手にしません。

 しかし、ネットでは、嘘が上手で巧みなほど、
他の人々をだまして、上位にたてます。
現実世界とは異質の世界です。

 よって、
「ネット上でいばっている奴ほど、
ろくでもない」というのは、案外あたっていると
思います。

 私は、かのブログでは、はっきりいって
えばっています。そして、実生活では、
何も実践していない、怠け者です。

 ネットの虚構性、むなしさを表す例を
紹介します。

 『あぶないミクシィ』大流行!SNSの闇
 (洋泉社発行より)
P25 2ちゃんねるのある投稿

(引用開始)

おれのmixiにおける書き込み
「ハンセン病の人たちが経験してきた苦痛って、想像を絶するものだったと思うんですよね」
おれの2chにおける書き込み
「ライ病患者、きめえええええ」

(引用終了)

 (このような記事を紹介し、ハンセン病患者様にはすいません。)
 これが、ネットの闇の一例である。
おそろしい世界と心得るべきである。

(続く)
posted by 知られざる・・・ at 04:09| Comment(0) | webとの関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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